南海電鉄に岸里玉出(きしのさとたまで)という駅が
あるのだが。
今年の夏も、どこにも出かけなかった。
私の場合、毎年、夏になると仕事が忙しくなるから、
仕方がないんだけど。
唯一、自由な時間だったのは、大阪に仕事で出かけて、
前から気になっていた岸里玉出駅で降りてみたこと。
この駅、私が子どものころにはなかった。
ていうか、岸ノ里と玉出は、別の駅であった。
いったい、いつのまにいっしょになったのだろう。
そして、なんでいっしょにさせられたのだろう。
そこが気になっていた。
話は一気に50年ほど遡り、昭和40年ごろのことになる。
私は小学校5年生のときから、中学を卒業するまで、
大阪の高石(たかいし)というところで暮らした。
当時の高石は、まだ田んぼが多く、はっきり言って
田舎であった。大きな店は、まったくなかったので、
休日には南海電鉄の本線に乗って、大阪南部の繁華街
である難波(なんば)まで出ることが多かった。
高石から難波に出るには、普通電車に乗って、
つぎの羽衣で急行に乗りかえるのが一般的である。
しかし、のんびり屋の私の両親は、急行だと座れない
ことが多いので、そのまま普通電車に乗って、
難波まで行くことが多かった。
ま、高石から難波までだと、急行に乗り換えても、
所要時間は10分くらいしか、変わらなかったけど。
普通電車は堺を出ると、七道(しちどう)、住之江、
住吉公園(当時。現在は住吉大社)、天下茶屋(てんがちゃや)、
新今宮(しんいまみや)、終着の難波の順にとまっていった。
というと、現在、南海本線を利用されておられる方は、
「あれ? 粉浜、岸里玉出はどうしたんだ?」
と思われるだろう。
とまらなかったのである。
当時、住吉公園よりも遠くに行く「普通」電車は、
粉浜、玉出、岸ノ里にはとまらなかった。
その3駅にとまるのは、難波から出る住吉公園行きの
ちょっと古くて短い編成の「各駅停車」であった。
難波から住吉公園までは複々線化されていて、
住吉公園よりも遠いところから来る普通電車は
外側の通過線を通っていく。そこには、粉浜と
玉出、岸ノ里駅のプラットフォームがなかった。
このあたりは、東京でいうと、中央線の快速電車が
プラットフォームのない東中野、大久保、代々木、
千駄ヶ谷などにとまらないのと似ている。
ま、それはともかく、前述のように、当時、
岸里玉出という駅はなかった。岸ノ里と玉出は
あくまでも別の駅であったのだ。
いったいなぜ、このような駅ができたのだろうか。
2015年8月25日午後3時20分、私は南海本線の
岸里玉出駅に降り立った。
隣のホームには、汐見橋(しおみばし)行きの電車が、
すでに入線している。さっそく見に行ってみることにする。
じつは、南海電鉄の高野線の始発駅は難波ではない。
汐見橋という、この私ですら、どこにあるのか
よくわからない駅なのである。
その汐見橋行きの電車は、この岸里玉出から出ている。
2201と2251と書かれたちょっと古い電車は、
全長は17メートルしかなく、ドアも2つしかない。
出発時刻になると、ウォォーンと、ちょっと意外なほど、
力強いモータ音をあげながら走り去って行った。
かつて、難波から極楽橋までの直通急行運用に
あたったズームカーの増結車、通称「角ズーム」に
まぎれもない。こんなところで余生を送っていたのか、
と思って、私はびっくりした。
角ズームこと2200系電車(旧22000系)
(長くなったので、次回につづく)
あるのだが。
今年の夏も、どこにも出かけなかった。
私の場合、毎年、夏になると仕事が忙しくなるから、
仕方がないんだけど。
唯一、自由な時間だったのは、大阪に仕事で出かけて、
前から気になっていた岸里玉出駅で降りてみたこと。
この駅、私が子どものころにはなかった。
ていうか、岸ノ里と玉出は、別の駅であった。
いったい、いつのまにいっしょになったのだろう。
そして、なんでいっしょにさせられたのだろう。
そこが気になっていた。
話は一気に50年ほど遡り、昭和40年ごろのことになる。
私は小学校5年生のときから、中学を卒業するまで、
大阪の高石(たかいし)というところで暮らした。
当時の高石は、まだ田んぼが多く、はっきり言って
田舎であった。大きな店は、まったくなかったので、
休日には南海電鉄の本線に乗って、大阪南部の繁華街
である難波(なんば)まで出ることが多かった。
高石から難波に出るには、普通電車に乗って、
つぎの羽衣で急行に乗りかえるのが一般的である。
しかし、のんびり屋の私の両親は、急行だと座れない
ことが多いので、そのまま普通電車に乗って、
難波まで行くことが多かった。
ま、高石から難波までだと、急行に乗り換えても、
所要時間は10分くらいしか、変わらなかったけど。
普通電車は堺を出ると、七道(しちどう)、住之江、
住吉公園(当時。現在は住吉大社)、天下茶屋(てんがちゃや)、
新今宮(しんいまみや)、終着の難波の順にとまっていった。
というと、現在、南海本線を利用されておられる方は、
「あれ? 粉浜、岸里玉出はどうしたんだ?」
と思われるだろう。
とまらなかったのである。
当時、住吉公園よりも遠くに行く「普通」電車は、
粉浜、玉出、岸ノ里にはとまらなかった。
その3駅にとまるのは、難波から出る住吉公園行きの
ちょっと古くて短い編成の「各駅停車」であった。
難波から住吉公園までは複々線化されていて、
住吉公園よりも遠いところから来る普通電車は
外側の通過線を通っていく。そこには、粉浜と
玉出、岸ノ里駅のプラットフォームがなかった。
このあたりは、東京でいうと、中央線の快速電車が
プラットフォームのない東中野、大久保、代々木、
千駄ヶ谷などにとまらないのと似ている。
ま、それはともかく、前述のように、当時、
岸里玉出という駅はなかった。岸ノ里と玉出は
あくまでも別の駅であったのだ。
いったいなぜ、このような駅ができたのだろうか。
2015年8月25日午後3時20分、私は南海本線の
岸里玉出駅に降り立った。
隣のホームには、汐見橋(しおみばし)行きの電車が、
すでに入線している。さっそく見に行ってみることにする。
じつは、南海電鉄の高野線の始発駅は難波ではない。
汐見橋という、この私ですら、どこにあるのか
よくわからない駅なのである。
その汐見橋行きの電車は、この岸里玉出から出ている。
2201と2251と書かれたちょっと古い電車は、
全長は17メートルしかなく、ドアも2つしかない。
出発時刻になると、ウォォーンと、ちょっと意外なほど、
力強いモータ音をあげながら走り去って行った。
かつて、難波から極楽橋までの直通急行運用に
あたったズームカーの増結車、通称「角ズーム」に
まぎれもない。こんなところで余生を送っていたのか、
と思って、私はびっくりした。
角ズームこと2200系電車(旧22000系)
(長くなったので、次回につづく)