旧東海道庄野宿の標柱
出張で名古屋に出かけた。
で、時間があったので、旧東海道の庄野宿に
行ってきた。
庄野は東海道の45番目の宿場である。
ちいさな宿場であり、その存在を知る人は少ない。
旧東海道を歩く旅人、自転車で走る旅人、
あるいはオートバイで走る旅人くらいしか、
その存在を知らないのではないか。
私自身は旧東海道をオートバイで、
日本橋から京まで走ったことがあり、
そのときに庄野を訪れている。
2001年5月のことであった。
東海道は江戸時代から大きな街道であったが、
一般の旅人の多くは、お伊勢参りが目的であった。
そのため、江戸から来た旅人は四日市から、
京・大坂から来た旅人は関から、
それぞれ伊勢街道に行ってしまう。
また、商用や公用で江戸と大阪を行き来する旅人の多くは、
七里の渡しを嫌って、中山道と美濃街道を使った。
だから、亀山、庄野、石薬師の3つの宿場は、
当時から、宿泊客が非常に少なかったものと思われる。
現在では、庄野の地名はほとんど知られていないけれど、
歌川(安藤)広重の描いた東海道五十三次の浮世絵、
庄野「白雨」(はくう=夕立、にわか雨の意)は有名である。
突然の雨に、旅人たちが逃げまどうように街道を走る姿が、
いきいきと描かれている。
歌川広重 庄野「白雨」
木版画では、遠近感が表現しにくい。
どうしても、べったりした面になるので、
平面的な表現になってしまうのだ。
が、広重は背景の竹林について、近くは濃く、
遠くは淡く描くことにより、みごとに遠近感を
表現してみせている。そして、夕立の強い雨に煙り、
視界が悪くなっている様子も、同時に表現している。
みごとな感覚、技法であるといえよう。
私は子どもの頃、永谷園のお茶漬け海苔に入っていた
広重の「東海道五十三次シリーズカード」を
集めていたのだが、「庄野」はとくに気に入っていた。
その庄野を、久しぶりに訪ねてみようと思った。
じつは、前回、オートバイで走った際には、
いまにも雨が降りそうな天気だったし、
日程の都合で、どうしてもその日のうちに京都まで
走りたかったので、白雨の旅人と同じように、
急いで駆け抜けてしまった。で、庄野宿の様子を
あまりよく見ていなかったのだ。
2013年7月26日朝7時ごろ、私は関西本線の加佐登
(かさど)駅にいた。
駅を出てから、線路沿いに西に向かう。
そして線路の反対側に出て、川を渡り、
なにやら大きな工場のあいだの道を抜けると、
「庄野町西」という交差点に出る。
そこから約800メートルくらいが、旧東海道の
街道集落になっている。
町を歩き始める。
庄野宿資料館というものがあった。
前に来たときには、まったく気がつかなかった。
よくある本陣跡とか、そういうのではなく、
普通の民家である。館内には、なにやらいろいろなものが
展示されているようで、入館は無料であるが、
残念ながら開館は10時から。
まだ、あいていなかった。
庄野宿資料館 (旧小林家)
さらに歩く。
家々の大半は新しいものだけど、ところどころに
古い民家が残っている。本陣跡という標柱があったが、
残念ながら、建物は残っていなかった。
さらに歩くと、街道集落が終わったところに、
「東海道庄野宿」という標柱があった。
旧東海道と現在の庄野の町並み
それだけである。
まあ、なにもないところである。
日本の歴史に興味がなければ、
面白くもなんともないだろう。
一般の人にとっては、名古屋港水族館か、
リニア鉄道館にでも行った方が、よほど楽しいと思う。
同行者がいれば、必ず、文句を言われるだろう。
けれど、私ひとりだから、文句を言われることはない。
そういったところが、私がいつもひとりで旅をする
理由なのである。
ということで、今回の記事のまとめであるが、
現在の庄野宿はなにもないところであるが、
江戸時代の旅文化と、広重が浮世絵で描いた風景を偲ぶには
いいところである。
午前8時すぎに加佐登駅に戻った私は、
8時36分発の亀山行きに乗車。
亀山発9時08分発の関西本線の気動車に乗り、
つぎの関(せき)で降りて、関宿を見てから名古屋に戻った。